駆逐艦とは
1866年、イギリス人のロバート・ホワイトヘッド技師が自走できる機雷、つまり魚形水雷=魚雷を発明した。この画期的な水中兵器を搭載した小艇(水雷艇)をイギリス海軍が初めて1877年に建造した。この水雷艇は排水量27トン、全長26m、18knのスピードを出したので、各国海軍はこぞって水雷艇の建造を開始した。この水雷艇が駆逐艦の始まりである。
夜陰に乗じて攻撃を仕掛けてくる水雷艇に悩まされた各国海軍は、戦艦や巡洋艦に47mm速射砲を取り付けて水雷艇を追い払おうとしたが、速度の遅い戦艦や巡洋艦では取り逃がしてしまう。そこで開発されたのが大型水雷艇(それでも排水量は250トン前後)で、水雷艇より速い速力を持ち7.6cm砲と57mm砲3門を備えたイギリス・ヤーロー社のハボックである。つまり駆逐艦の「駆逐」とは、水雷艇を駆逐することを意味している。フランスでは駆逐艦のことを、ズバリ、コントル・トルピウー(水雷艇殺し)と呼ぶ。
近代的駆逐艦の登場
日本海軍における初めての駆逐艦は、イギリス・ヤーロー社に発注した雷型で、公試排水量305トン、機関出力6,000馬力、速力31kn、3インチ(7.6cm)砲1門、2.1インチ(5.4cm)砲4門、45cm魚雷発射管2基という性能だった。明治29年建造計画により6隻、同じ年にイギリスのソーニクロフト社製も6隻購入が決定された。その後ヤ社とソ社からそれぞれ2隻購入した後、いよいよ国産の駆逐艦を建造するに至った。明治37年(1904年)2月に勃発する日露戦争の2年前、明治35年には、ヤ社から購入した駆逐艦を手本に春雨型7隻を建造し、日露戦争期間中も神風型32隻を次々と建造した。
日露戦争における日本海軍の活躍ぶりはこのサイトでは省略するが、新戦力とも言える駆逐艦の活躍も見逃せない。日露戦争のクライマックスである日本海海戦において、日本海軍駆逐艦はロシア海軍の戦艦シソイ・ウェリキー、ナワリン、装甲巡洋艦ナヒモフ、モノマフを撃沈する大手柄をたてた。この日露戦争には世界各国から観戦武官が両国に派遣され、日露戦争における戦訓を自国へ持ち帰り第一次世界大戦に活かされることとなるが、駆逐艦の重要性が認識された海戦となったことは間違いない。
第一次世界大戦が勃発して、ドイツ海軍のUボートが地中海で大暴れしていたことから、イギリスとフランスは日本海軍に対して応援を要請し、日英同盟の手前、海外派兵せざるを得なかった。樺型、桃型などの駆逐艦12隻が派遣され1年半に渡り地中海にて連合国側の輸送船などの護衛に任じた。この活躍もあってか、フランス海軍は駆逐艦不足を日本に求め、日本に対して樺型駆逐艦12隻の建造を依頼してきた。日本造船界に降って湧いた大仕事に、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各海軍工廠が2隻ずつ建造し、民間の三菱造船長崎や川崎造船神戸も加わり、総力を挙げてフランスの要求に応えた。
純国産駆逐艦を建造す
八八艦隊の足がかりとも言える八四艦隊設立が国会で承認されたときに、艦隊護衛の駆逐艦も建造計画に遡上された。それまでは、輸入したり、輸入した駆逐艦をほとんどデッドコピーしたりと、外国の模倣から抜け出てなかったが、ここにきて設計の最初から純日本式の駆逐艦を建造することが決まった。これが、峯風型で同型艦は15隻建造された一等駆逐艦である。ちなみに、一等駆逐艦とは、排水量が1,000トン以上の駆逐艦をいい、二等駆逐艦は600トン程度から1,000トン未満を、三等駆逐艦は500トン程度未満の駆逐艦を指す。
続いて建造された神風型、睦月型も同様な艦形で装備もほぼ同じであったが、睦月型の雷装は61cm発射管6門を備え、予備魚雷を6本持っていた。ただし、後に現れる次発装填装置はまだ開発されていなかったので、人力によって発射管に装填しなければならず、荒れた海では予備魚雷を装填するのは不可能に近かったという。
強力な特型の誕生
ワシントン軍縮会議で戦艦の対米・英比率を6割に抑えられた日本は、規制が掛かっていない補助艦艇つまり巡洋艦や駆逐艦に活路を見いだそうとしていた。巡洋艦では妙高型であり、駆逐艦では吹雪型である。軍令部が要求した吹雪型は太平洋を西進してくるアメリカ艦隊を迎え撃つために、潜水艦で漸減的攻撃を仕掛け、駆逐艦でさらに雷撃を加えて戦力を削ぐ戦術を考えていたことから、少々海が荒れていても敵輪型陣を突破できる凌波性を持ち、先兵として行動できるような航続力を備え、そして何よりも強力な攻撃力を必要とした。
要求を取り入れた艦形は、従来の峯風型に比べて基準排水量は4割近く増え、兵装においては主砲の12cm4門が12.7cm6門に53cm発射管6門が61cm発射管9門にと格段のパワーアップが図られた。荒海でも航走できるように船首楼は艦橋まで伸ばされて耐波性が増し、艦首はクリッパー型のダブルカーブド・バウを取り入れてスピードアップに貢献している。
無条約時代の駆逐艦
ロンドン条約の昭和11年末失効がほぼ確定的となった昭和10年度から第一次、11年に第二次、12年に第三次補充計画を策定し、大規模な軍拡計画がスタートした。第三次補充計画(通称マル三計画)には戦艦大和や空母翔鶴などを含み、駆逐艦では陽炎型15隻も含まれていた。さらに翌年のマル四計画で3隻が追加され、合計18隻を建造することとなった。陽炎型は甲型駆逐艦と呼ばれ、続いて乙型、丙型、丁型とタイプの違う駆逐艦を建造する計画だった。ちなみに、甲型は最後に作られた艦隊随伴用駆逐艦で、乙型は防空駆逐艦、丙型は高速重雷装艦、丁型は戦時急増護送駆逐艦である。