巡洋艦とは

巡洋艦の定義付けは各国海軍ともあいまいで、これぞ巡洋艦だ、というものがない。ただし、巡洋艦の性格ははっきりとしていて、軽やかなかつ長大な足を持っていて、戦艦部隊の目となって偵察、策敵をし、水雷戦隊の旗艦、敵駆逐艦の排除を任務としている。重巡と軽巡の区別はワシントン軍縮会議では特に決まっておらず、ロンドン軍縮会議において排水量と備砲によって分類されたが、この分類も多分に政治的な意味合いが強く重巡と軽巡の線引きはあまり意味を成さない。

近代的巡洋艦の建造

第一次世界大戦において巡洋艦が果たした役割は、艦隊行動に必要な要素を含んでいることを各国海軍は思い知ることとなる。そこで、日本海軍は第一次大戦の戦訓から近代的な軽巡を建造した。それが「龍田」「天龍」の2隻である。この2隻に続いて建造されたのが八八艦隊の計画に基づいた、いわゆる5,500トン型軽巡である。5,500トン型軽巡には「球磨」型、「長良」型、「川内」型の3種類がある。大東亜戦争にはこの5,500トン型から以降の軽巡が活躍する。

オマハ型軽巡

後に重巡として分類される古鷹型は、アメリカが建造を計画していたオマハ型及びイギリスのホーキンス型に対抗すべく設計された軽巡である。オマハ型は常備排水量7,500トン、6インチ(15.24cm)砲12門、速力34kn、ホーキンス型は常備排水量9,750トン、7.5インチ(19.05cm)砲7門、速力31knというスペックで、主砲こそ軽巡だが船体は十分重巡であった。古鷹型は特にオマハ型を意識して設計され、基準排水量7,100トンにどれだけ重装備を施せるかが課題であった。

こうして日本海軍の近代的巡洋艦の歴史は軽巡建造から始まり、2度の軍縮会議を経て重巡、軽巡という役割分担が確立する。重巡は高速力と大航続距離を活かし、航空機の目を持って艦隊の先兵として偵察を行い先陣を切る役目を持ち、軽巡は駆逐艦を率いて水雷戦を指揮する水雷戦隊旗艦の役目を果たす日本海軍独自の発達を遂げた。

ロンドン軍縮会議を引き起こした妙高型重巡

ワシントン条約で主力の戦艦、巡洋戦艦の建造が制限され、対米英比率6割となった日本海軍は制限のかからなかった巡洋艦に目を付け、戦艦の攻撃力に匹敵する巡洋艦作りに励んだ。元来米英に比べて工業力の弱い日本では、多量に軍艦を揃えることができないため個艦優秀が叫ばれた。1隻で2~3隻の働きができる艦を建造し、訓練された水兵によって動かせば数は問題ではないという考えである。

ニューオリンズ型ミネアポリス

古鷹型で世界をうならせた平賀譲造船大佐が次に手がけたのが基準排水量1万トン以内の重巡である。主砲はこれも制限いっぱいの8インチ(20.3cm)砲である。アメリカはオマハ型の後にペンサコラ型、ノーザンプトン型、ニューオリンズ型のいわゆる条約型重巡を次々に建造したが、妙高型を上回るものはできなかった。さらに、日本海軍は妙高型が完成していないのに次の高雄型の設計に取りかかった。これを見た米英は巡洋艦以下の補助艦艇にも条約の網をかぶせるべきだと考え、ロンドン軍縮会議の開催へと繋がるのである。

友鶴事件と第四艦隊事件が与えた影響

昭和9年(1934年)3月12日に水雷戦隊の演習中に佐世保港外において発生した千鳥型水雷艇3番艦「友鶴」の転覆事故および昭和10年(1935年)9月26日にに岩手県東方沖での演習に向かう第四艦隊が台風に遭遇し、参加艦艇の約半数が損傷した第四艦隊事件は日本海軍の全艦艇を巻き込む大事件となった。

両事件に共通していたことは、個艦優秀を用兵側が強く要求しすぎたため、過大な兵装による復元性の悪化や船体軽量化による強度不足が原因であった。攻撃力偏重主義がもたらした艦のひずみは、ロンドン条約に合致せんがための極度の軽量化と過大な攻撃力の要求が最大の原因であり、対象艦艇の改修に相当な時間と費用を費やすこととなる。

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