ワシントン海軍軍縮会議とロンドン海軍軍縮会議

第一次世界大戦(1914年~1918年)終結後、戦勝国間に建艦競争が起き各国経済に軍事費負担が大きくのしかかってきた。代表的な海軍増強計画としては、戦艦10隻、巡洋戦艦6隻をはじめとして計155隻の艦艇を3年間で建造するアメリカのダニエルズ・プランや戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を根幹とする艦隊整備計画である日本の八八艦隊が有名である。このまま建艦競争を野放しにしておくと国家財政破綻を来しかねないとして、また日本の台頭を抑制する意味でもアメリカは海軍の軍事力を暴走させてはならないと考えた。そこでまず手始めにアメリカが戦勝5カ国(アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア)を対象としたワシントン軍縮会議を提案し、さらにイギリスがロンドン軍縮会議を提案した。

この二つの軍縮会議は日本にとって屈辱的な結果をもたらしたが、この結果によって優秀な軍艦が建造されるきっかけとなったことも事実である。

ワシントン海軍軍縮会議の内容と影響

条約は建造中の艦船を全て廃艦とした上で、アメリカ及びイギリス、日本、フランス及びイタリアの保有艦の総排水量比率を5:3:1.75と定めた。(最終的には保有総トン数、比率とも変更されている。)

艦種国名合計排水量1艦あたりの基準排水量備砲
戦艦米・英50万トン3万5千トン主砲16インチ(40.6cm)以下
日本30万トン
仏・伊17万5千トン
航空母艦米・英13万5千トン2万7千トン
(2艦に限り3万3千トン)
8インチ以下
6インチ以上を装備する場合は5インチ以上の砲を合計10門以下
先の2艦に限り5インチ以上の砲を合計8門以下
日本8万1千トン
仏・伊6万トン
巡洋艦制限なし1万トン以下5インチ(12.7cm)以上
8インチ(20.3cm)以下

廃艦となる建造途中の艦船をリストアップする上で日本の陸奥を入れるか否かの問題が起こった。当時16インチ砲を装備した戦艦は日本の「長門」、アメリカのコロラド級2番艦「メリーランド」の2隻のみだったので「陸奥」を完成艦としてしまうと日本が圧倒的に有利となるためアメリカ・イギリスは強行に反対した。事実、陸奥は条約に間に合わせようと突貫工事をして海軍に納入されたが、不完全な状態での引き渡しとなっていたことをアメリカ・イギリスは気付いていた。そこで、アメリカ・イギリスは陸奥のリスト除外を条件に、アメリカは廃棄が決まっていたコロラド級2隻の建造続行を、イギリスは2隻の新造(後のネルソン級戦艦)を許すかたちとなり、戦艦比率ではかえって対米英比率を悪くしてしまった。この問題の結果、保有トン数に変更が加えられ、最終的な数字は、アメリカ・イギリスが52万5千トン、日本が31万5千トン、フランス・イタリアは変更なしとなり、比率としては5:5:3:1.67:1.67となった。

航空母艦の取り決めで面白いのが、備砲の取扱いである。戦艦では単純に16インチ以下としか決めていないのに、6インチ以上を装備する場合なら5インチ以上の砲を合計10門以下など細かく定めていることから当時の航空母艦の使用方法がこの備砲の細部規定から読めてくる。当時の航空機の航続距離が短かったこともあるが、単艦あるいは少艦隊で出撃して敵艦隊の巡洋艦と渡り合えるだけの主砲が必要と考えていたフシがある。日本が示した機動部隊のような、戦艦の主砲が届かない距離から航空機で艦隊を攻撃するアウトレンジ戦法は微塵も考えの中にはなかったようだ。

日本海軍は戦艦と航空母艦で屈辱的な対米英比率をのまされたので、制限のない巡洋艦に目を付けてこれを増強しようと考えた。ここにワシントン条約下での巡洋艦つまり条約型巡洋艦の設計が始まったのである。基準排水量1万トン以下、主砲8インチ以下の条件でいかに優秀な巡洋艦を建艦するか、まさに設計者の腕の見せ所である。日本では設計の神様とまで言わしめた古鷹型で非凡な才能を見せた平賀譲造船少将(古鷹型設計時は造船大佐)が今度は妙高型重巡洋艦を設計し世界をあっと言わせることとなる。皮肉なことにワシントン条約で戦艦、航空母艦は建艦が制限されたが、そのかわり重巡洋艦の建艦競争が始まってしまったのである。

ロンドン海軍軍縮会議の内容と影響

日本海軍は妙高型の4隻を建艦すると、まもなく次期重巡の設計を開始した。基準排水量1万トン以下の高雄型である。妙高型でさえこれを凌ぐ重巡を設計するのは困難であると考えていた諸外国は、日本海軍が妙高型を凌ぐ重巡を設計し始めたことにより脅威を覚え、補助艦艇への制限も視野に入れた軍縮会議を画策した。その思惑で開かれたのがロンドン海軍軍縮会議である。つまり、妙高型重巡が世界を再度の軍縮会議へと突き動かしたきわめて希有な例であると言えよう。

日本イギリスアメリカ
主力艦隻数91515
合計基準排水量31万5千トン52万5千トン52万5千トン
単艦基準排水量3万5千トン以下
備砲16インチ以下
航空母艦合計基準排水量8万1千トン13万5千トン13万5千トン
単艦基準排水量2万7千トン以下
備砲1万トン以下の艦は6.1インチ未満
1万トン以上の艦は8インチ未満
重巡洋艦隻数121518
合計基準排水量10万8千トン14万6800トン18万トン
単艦基準排水量1万トン以下
備砲6.1インチを超え8インチ以下
軽巡洋艦合計基準排水量10万450トン19万2200トン14万3500トン
単艦基準排水量1850トン以上1万トン未満
(1850トン未満でも5.1インチ以上の砲を有するものを含む)
備砲6.1インチ以下
駆逐艦合計基準排水量10万5500トン15万トン15万トン
単艦基準排水量1850トン以下
備砲6.1インチ以下
潜水艦合計基準排水量5万2700トン5万2700トン5万2700トン
単艦基準排水量2000トン以下(3隻に限り2800トンまで)
備砲5.1インチ以下(上記3隻のみ6.1インチ以下)
その他の艦2000トン、20ノット、6.1インチ砲4門以内の艦は無制限(ただし細かい規定あり)
600トン以内の艦は無制限

その他の規定として、重巡洋艦と軽巡洋艦の合計排水量内で、その25%までは航空母艦に転用することができる、重巡洋艦と軽巡洋艦は、各合計排水量の10%までで互いに融通することができる、駆逐艦は1500トン以上のものは合計排水量の16%以内とする、などがある。

時の内閣は対米比率7割に近い6.975割を獲得できたため総合的に判断して米英の案を受諾するつもりでいた。事実、海軍内部にもこの条件でよしとするグループも現れたのである。しかし、大方の見方は、この条約によって戦艦、航空母艦の主力艦以外の巡洋艦までも制限されることは対米戦力が著しく劣ることとなり、到底呑める案ではないというものだった。当時の内閣総理大臣である若槻礼次郎は与党民政党の数にものを言わせてこの条約を批准してしまったがために様々な対立を呼ぶこととなる。

条約批准後の第59議会の予算委員会で大問題が起こった。いわゆる「統帥権の干犯」事件である。予算委員会で答弁に立った幣原外相、首相代理がある委員の「天皇の最高惟幄(いあく)機関である軍令部の反対を押し切って批准した内容でも国防には支障を来さない旨の答弁をしたが、海軍大臣はロンドン条約の兵力量では不足である旨の発言をしている。若槻首相と幣原大臣の責任は重大である。」との発言に対して「この条約は天皇陛下が御批准をなさっている。御批准をなさっているということはロンドン条約が国防を危うくするものではないことは明らかである。」という答弁をした。この答弁に対して別の委員が「このロンドン条約に関して首相代理としてはもとより、外務大臣として、国務大臣としての責を全うせず、陛下に責任を押しつけるということか」との発言にいたり、予算委員会は騒然とした雰囲気になり「これは大なる不敬罪だ」「幣原決心しろ」「国賊を引っ張り出せ」「謝って済むと思うか」などの怒号が入り乱れ、あげくには流血騒ぎの乱闘に発展した。この事件の後、満州事変が起き若槻内閣は軍部の横暴を抑える力を失い政権を投げ出してしまった。この幣原首相代理の失言を引き出した予算委員会の委員は中島知久平であった。中島知久平は中島飛行機を興した後、弟に会社を譲って国会議員となった1年目での出来事だった。

「統帥権の干犯」事件以後、昭和7年(1932年)の五・一五事件を経て昭和8年(1933年)国際連盟を脱退し、翌9年(1934年)にワシントン条約を一方的に破棄した。残るロンドン条約も昭和11年(1936年)までが期限なのでアメリカ・イギリスはなんとか新条約の成立をさせようとして日本にはたらきかけた。その結果、昭和10年(1935年)12月に第2回ロンドン軍縮会議が開かれ、日本は永野修身海軍大将と永井松三大使を全権として送り込んだ。しかし、この時の日本の主張は対米英比率を1:1にすることだったため、当然両国に受け入れられるはずもなく、日本は翌年1月15日にロンドン条約から脱退することを通達し、永野全権らはさっさと帰国してしまった。ここに無条約時代が訪れたのである。

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