魚雷、機雷、爆雷
魚雷、機雷、爆雷をまとめて水雷という。水雷の中で機雷が一番早く実戦投入(1776年アメリカ独立戦争においてアメリカがイギリスの小型帆走商船に対して使用し、撃沈している。)され、その後受動的兵器である機雷を能動的兵器にしたのが魚雷である。魚雷の原型は1864年にイギリスで生まれ、日本は1884年にドイツから輸入している。第一次大戦が始まると連合国はドイツの潜水艦に手こずり、苦肉の策として開発されたのが、浮遊式機雷を降下式に改めた爆雷だった。
魚雷
魚雷はイギリスのロバート・ホワイトヘッドの発明によるとされている。1864年に試作された魚雷は、細長い紡錘形をしていて全長2m、直径36cm、全重量135kg、炸薬量7kg、水中最大速度6ノットであった。動力は圧搾空気で、ボンベに貯められた46気圧の圧搾空気が星形3気筒のエンジンに送り込まれて回転運動を起こし、それを2枚羽根のスクリュー軸に伝える仕組みになっていた。魚雷の発展を握る鍵は、破壊力を増すための炸薬量の増加と水中速力を増すための推進機関の開発であった。
イギリス海軍は魚雷の製造権をアメリカ、フランス、イタリア、ドイツに与えたため、イギリスを含めた5カ国で独自の魚雷開発が行われるようになった。しかし、第二次大戦までに発達の頂点を迎えた蒸気機関を動力源とした魚雷の性能は日本を除く各国とも最大速力30~50ノット、射程3千~1万メートル、炸薬量300~320kgというものであった。艦艇上で取り扱える魚雷の大きさはおのずと決まってくるので寸法が制限され、炸薬量も圧搾空気量も同じような数字になってしまったのである。
魚雷の性能向上には圧搾空気の約80%が燃焼には不必要な気体(主に窒素)なので、燃焼に必要な酸素だけを搭載した魚雷が各国で研究された。しかし、酸素は爆発的な燃焼をするためコントロールが難しく、戦場での武器としての使用には不向きだとしてほとんどの国が開発を諦めた。ところが、日本海軍だけは開発を続行し、ついに酸素だけを用いた魚雷を開発する。日本を除く各国は燃焼の始めから酸素を使おうとして失敗したが、日本海軍は安定的に燃焼するまでは空気を使い、徐々に酸素だけに切り替えるという微妙な制御の開発に成功し、世界に冠たる酸素魚雷を完成させた。しかし、気むずかしい兵器であることに変わりはなく、酸素魚雷の調整には専門の係がつかなければならなかった。
国名 | 直径mm | 炸薬量kg | 雷速kn | 射程m | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
日本 | 610 | 480 | 50 | 20,000 | 九三式Ⅰ型 |
40 | 30,000 | ||||
36 | 40,000 | ||||
780 | 48 | 15,000 | 九三式Ⅲ型 | ||
533 | 550 | 48 | 5,000 | 九五式Ⅱ型(潜水艦用) | |
40 | 9,000 | ||||
アメリカ | 533 | 300 | 43 | 4,000 | 過熱空気式 |
32 | 8,000 | ||||
イギリス | 533 | 320 | 46 | 3,000 | |
30 | 10,000 | ||||
ドイツ | 533 | 300 | 44 | 6,000 | |
30 | 14,000 |
数字を見ると炸薬量、雷速、射程とも世界の標準から抜きんでて優れていたことがわかる。特に九三式Ⅲ型は炸薬量が列国魚雷の2.4倍以上もあり雷跡が見えないことと相まって恐怖の兵器といえる。
魚雷は通常3連装か4連装の発射装置に装填されている。日本海軍の駆逐艦は3連装×3基あるいは4連装×2基装備されていたが、その魚雷数と同数の魚雷を次発装填用として装備していた。これは各国にはない日本海軍独自のもので強力な雷撃戦ができることを意味する。連合艦隊随一の韋駄天を誇った駆逐艦の島風だけは異例の5連装発射管を3基装備し、次発装填用の予備魚雷はなかった。
機雷
機雷は水雷の中で開発されたのが一番古く、1776年アメリカ独立戦争においてアメリカがイギリスの小型帆走商船に対して使用し、撃沈したのが機雷の始まりとされている。
アメリカ独立戦争で使用された機雷は浮遊式で、樽に爆薬を入れ停泊している艦船に向けて流したものである。その浮遊式機雷が次第に待ち伏せ兵器へと変貌する。自国の港を防御するために湾口周辺に敷設したり、敵艦が航行しそうな航路に敷設したりする係維式機雷へと発展する。触覚のような信管を持ち、潮の満ち引きを考慮して水面下7m前後に浮かぶよう海底におもりを垂らしてつなぎ止められる。この係維式機雷は掃海されやすいという欠点があったため、次に考案されたのが磁気機雷である。敵地港湾付近の海底に潜み、艦船が上を通過するとその磁場の変化を読みとり爆発する仕組みだ。イギリスに対してドイツが磁気機雷を使用したことにより、イギリスは木造掃海艇に強力な磁場を発生させるコイルを垂らして航行させることにより対処した。ドイツはイギリスが磁気機雷を掃海する技術を確立したと見るや、艦船のスクリュー音やエンジン音に感応する音響機雷を開発し投入した。この新しい機雷を発見したイギリスは艦船のスクリュー音に似た周波数の音を発生する板を曳かせ掃海している。日本海軍はドイツから磁気機雷を入手し、模造(仮称三式機雷)したが結局ものにならなかった。アメリカは掃海不可能と言わしめた水圧感応式機雷を開発し、日本近海にばらまいた。磁気、音響式も含めて11,000基以上の機雷を敷設している。日本海軍はこれらの発展型機雷を実用化できず、また掃海技術も劣った状態で機雷戦に完敗している。
爆雷
爆雷は水雷の中で一番遅く開発された兵器である。第一次大戦中、ドイツ潜水艦に手を焼いたイギリスが、既に開発が進んでいた投下式機雷を改良し、潜水艦攻撃専用兵器として開発した。日本海軍は日英同盟のよしみから、地中海に連合軍艦船護衛の派遣要請を受けて赴いたときに、イギリスから爆雷の提供を受けたのが初めてであった。構造はドラム缶状の中に炸薬があり、水圧で信管が作動する仕組みであり、前投式の爆雷が出現するまでほとんど同じ形であった。
ところが、この爆雷攻撃のシーケンスには大事な要素が欠けていた。攻撃に際して敵潜水艦の位置を特定する技術が確立されていなかったことである。感度の良い水中聴音器やソナーは開発途上であったので、潜水艦から撃たれた魚雷から推察したり、哨戒によって潜水艦の潜望鏡を発見してその付近に爆雷攻撃を仕掛けることくらいしかできなかった。つまり、初期の爆雷は威嚇兵器でしかなかった。
爆雷の投下には2種類の方式がある。艦尾に軌条を敷き、その上で爆雷を転がして投下する方式と、爆雷を火薬の爆風で吹き飛ばす方式である。投射式装置はその形状から、片舷のみ発射するものは「K砲」、両舷に投射できるものは「Y砲」とよばれた。一般的にその射程範囲は約50~200mであり、日本海軍の九四式投射器は片舷投射の場合105m、両舷投射の場合は75mであった。また、強い火薬を使うことによって、片舷200m、両舷140mの射程を得た。
水中聴音器やソナーの技術が実用の域に達してくると、受け身であった爆雷攻撃に変化が出てきた。潜水艦を探知するとそこへ向かって爆雷を一斉投下する攻撃方法が開発された。その攻撃に使用されたのが前投式の爆雷で、イギリスは「ヘッジホッグ(はりねずみ)」と名付ける。潜水艦探知技術が発達しても、通常爆雷ならその水域に行かないと攻撃できない。探知した位置へ向けて大量(24発)のヘッジホッグを投射し、そのうちのどれか1発でも敵潜水艦にあたれば残りのヘッジホッグが爆発する仕組みになっていた。1発もあたらなかった場合はヘッジホッグは触発信管なので爆発せずすぐさま最探知される。通常爆雷では投下した爆雷が全部爆発して海中が静まらないとサーチできない。日本海軍は水中聴音器やソナーの開発に手間取り、ついに前投式爆雷の開発まで手が回らなかった。大戦後期、改造商船に陸軍の迫撃砲(70mm、88mm)を1門設置してしたが、ほとんど威嚇兵器であったと思われる。