戦艦とは

戦艦は18世紀末に帆走の戦列艦が出現したあたりからの歴史がある。近代的な戦艦の発生は鉄で覆われた船体を蒸気機関で走らせた装甲艦が始まりとされる。1859年、イギリスで建造された排水量9,000トンのウォーリアが世界初の航洋装甲艦といわれ、これが現代戦艦の始まりと言って差し支えない。

日本海軍が保有した初期の戦艦

明治11年(1878年)イギリスに発注してできあがったのが初代「扶桑」である。常備排水量3,717トン、水線長67.06メートル、速力13ノット、主砲は24センチ砲4門、副砲は17センチ砲2門、7.5センチ砲6門、その他9門というスペックだった。当初、帆走用のマストを3本備えていたが、改装されて機関動力のみで航走するようになる。その後、扶桑は日清戦争に参加し、黄海海戦、威海衛攻略で活躍した。

扶桑が建造された前後から戦艦の急激な発展が見られるようになってきた。1871年、イギリスのデヴァステイションは、今まで大砲を舷側にずらりと並べた形式から砲塔を備えた戦艦となった。大砲の大型化によって左右に装備を必要とする形式では建艦上無理が生じてきたためである。この砲塔の出現により大砲の可動範囲は飛躍的に上昇し、攻撃時の操艦に幅を持たせることができた。

急激な発展を遂げたこの時期に、日本は明治30年から35年にかけて「富士」「八島」「敷島」「朝日」「初瀬」「三笠」の各戦艦をイギリスに発注して完成させている。富士型(富士、八島)は、常備排水量12,533トン、全長114m、速力18.25kn、30.5cm連装2基、15.2cm単装10門、4.7cm単装24門、45cm水上魚雷発射管1門、45cm水中魚雷発射管4門で、敷島型(敷島、朝日、初瀬、三笠)は、常備排水量14,850トン~15,140トン、全長129.62m~134.1m、速力18kn、30.5cm連装2基、15.2cm単装14門、7.62cm単装20門、4.7cm単装12門~16門、魚雷発射管45cm発射管4門~5門というスペックで、当時の最強艦であった。

日露戦争中に主力艦を国産する必要に迫られ、いよいよイギリスに学んだ戦艦の建艦技術を実行することとなる。明治37年、日本海軍は巡洋戦艦「筑波」「生駒」戦艦「薩摩」「安芸」を設計し翌38年に着工した。「筑波」「生駒」は速力20.5knの高速力を備えた巡洋戦艦である。また、「薩摩」「安芸」は排水量2万トンクラスで、30.5cm連装2基、25.4cm連装6基、12cm単装12門(安芸は15.2cm単装8門)、8cm単装8門(安芸は7.6cm単装12門)、45cm魚雷発射管5門の重装備であった。この2艦が完成すると、当時世界最強の戦艦となるはずだった。

ドレッドノート以降における日本海軍の戦艦

ドレッドノート

戦艦「薩摩」「安芸」はそれぞれ1906年11月と1907年4月に進水するが、2艦に先駆けて1906年2月に従来の戦艦と一線を画す戦艦がイギリスで誕生した。これがかの有名な「ドレッドノート」である。常備排水量18,110トンにかかわらず、速力21kn、30.5cm連装5基、7.6cm単装27門、45cm水中魚雷発射管単装5門と、思い切って副砲を装備しない主砲の破壊力に頼った高速戦艦であった。ドレッドノートが出現したおかげで薩摩と安芸は進水した時点でワンランク下の戦艦となってしまった。さらにイギリスはドレッドノートをベースにした巡洋戦艦インビンシブル級を6隻建造したため、世界中の戦艦を旧式艦へとおとしめてしまった。日本ではドレッドノートの頭文字「ド」に「弩」を充ててドレッドノート級の戦艦を弩級戦艦と呼ぶ。「薩摩」「安芸」は結局ワシントン条約で廃艦が決まり大正12年(1923年)除籍となった。

ドレッドノートの出現に日本海軍はすぐさま弩級戦艦の設計に取りかかった。それが明治45年(1912年)に完成した「河内」と「摂津」である。全くの同型艦ではないため排水量や大きさが若干異なるが、兵装は30.5cm(50口径)連装2基、30.5cm(45口径)連装4基、15.2cm単装10門、12cm単装8門、8cm(40口径)単装4門、8cm(25口径)単装4門、45cm魚雷発射管5門という装備を誇った。ただし、主砲は45口径と50口径が混在し、砲塔は全て中心線上ではなく45口径砲を両舷側に各2基ずつ配置した亀甲形式であったため、ドレッドノートの片舷射撃門数8門と変わらなかった。

オライオン

日本海軍がなんとか弩級戦艦「河内」と「摂津」を建造している間に、イギリスではドレッドノートを凌駕する戦艦と巡洋戦艦を建造していた。それが超弩級戦艦オライオン級(排水量2万2千トン級)と超弩級巡洋戦艦ライオン級(排水量2万6千トン級)である。どちらも主砲に34.3cm砲を採用し、オライオン級は連装砲塔5基を、ライオン級は連装砲塔4基を全部中心線上に配置した近代戦艦であった。この砲塔レイアウトにより全砲門を左右どちらにも振り向けることができ、効率の良い兵装となった。また、超弩級巡洋戦艦であるライオン級は速力が27knも出せ、当時の各国戦艦の20kn前後の速力を軽く上回る性能であった。このライオン級に触発されて日本海軍が計画したのが金剛級巡洋戦艦である。一番艦の金剛はイギリスのヴィッカース社に発注され大正2年(1913年)に完成した。残りの3隻、比叡、榛名、霧島は金剛を手本に国内で建造され、金剛は外国で建造された最後の戦艦となった。さらに日本海軍は、超弩級戦艦オライオン級に対抗する基準排水量29,330トンの扶桑型(扶桑、山城)と基準排水量29,990トンの伊勢型(伊勢、日向)の4隻を大正4年(1915年)~大正7年(1918年)に完成させた。

ジュットランド沖海戦が日本海軍の戦艦に与えた影響

第一次世界大戦のさなか、1916年5月31日から6月1日にかけて北海のデンマーク北西海域でおこった海戦がジュットランド沖海戦である。英独両海軍の艦艇は、主力艦72隻、軽巡約40隻、駆逐艦約230隻にのぼり、大艦隊同士の激突であった。その結果イギリス側の損害は巡洋戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻が沈没し、ドイツ側の損害は巡洋戦艦1隻、旧式戦艦1隻、その他軽巡数隻が沈没した。ここで大きな問題が発覚したのである。イギリスの主力艦はほとんどが轟沈状態だったのに対し、ドイツ艦は大破の後沈没したのである。イギリス艦の装甲の弱さが露呈した出来事で、逆にドイツ艦の撃たれ強さが認められた格好となった。日本海軍は当時建造に着手していた「長門」「陸奥」に、水平防御の徹底とバイタルパート(艦の主要部、つまり砲塔、機関室、弾薬庫など)に徹甲弾が貫通しない防御を求めた結果、設計を変更して起工したのである。こうした防御力強化タイプの超弩級戦艦はポスト・ジュットランド型と呼ばれるようになる。

夢の八八艦隊

第一次世界大戦が終わると各国海軍は大艦巨砲主義を振りかざし、より強い戦艦を建造することに血道を上げるようになる。日本海軍は八八艦隊構想という名のもとに、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を建造しようと躍起になっていた。その戦艦とは、すでに竣工していた「長門」「陸奥」に続いて排水量4万トン、速力26.5kn、40.6cm砲10門の「加賀」「土佐」を、高速戦艦として排水量42,600トン、速力29.75kn、40.6cm砲10門の「紀伊」「尾張」「駿河」「近江」を計画した。巡洋戦艦では排水量41,200トン、速力30kn、40.6cm砲10門の「天城」「赤城」「高雄」「愛宕」が計画され、続く5番艦以降の4隻は排水量47,500トン、速力30kn、45.72cm(18インチ、いわゆる46cm)砲8門とすることが考えられていた。これらの既成艦及び計画艦が八八艦隊の第一線艦隊で、第二線艦隊は扶桑型、伊勢型の戦艦4隻、金剛型の巡洋戦艦4隻である。しかし、ワシントン軍縮会議により「長門」「陸奥」以外は建造されていない。(ただし、「加賀」「赤城」は航空母艦に改造された。)

八八艦隊
艦種同型艦基準排水量
トン
速力
kn
主砲
cm×門
戦艦長門型長門、陸奥32,7202540.6×8
加賀型加賀、土佐39,97926.540.6×10
紀伊型紀伊、尾張、駿河、近江42,60029.7540.6×10
巡洋戦艦天城型天城、赤城、高雄、愛宕41,2003040.6×10
十三号型13号、14号、15号、16号47,5003045.72×8

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